在宅医の泣き笑い診療録

宮崎県都城市の高齢者住居を抱えるクリニックで、理想の在宅医療を模索する新米在宅医の悲喜こもごも

「親切」な張り紙

やたらめったら張り紙をしてあるのが嫌いだ。親切なのか、注意なのか、そこら中にベタベタと張っているのが目について嫌になる。うっかりコンビニのトイレなんか行くと、元の壁が見えないくらい張ってあって、用を足す時間よりも、それらを全部読む時間の方がかかってしまう。最後まで読み終わった頃には、最初の張り紙に何を書いてあったのか覚えていないので、なにを注意しているのかわからない上に、不快感だけがのこる。用を足して「すっきり」とはいかない。

 

また書いていることもカンにさわる。「トイレを汚されると迷惑だから綺麗に使え」と書けばいいのに、「いつも綺麗に使ってくれてありがとうございます」と善意を装うから、余計にいやみっぽさが鼻につく。いっそのこと「トイレは綺麗に使いましょう」とか「終わったら手を洗いましょう」と印刷したトイレットペーパーでも売り出せばいいのに。

 

まったく、いつの間に日本は張り紙だらけになってしまったのだろう。哲学者で作家の中島義道先生が、著書の「うるさい日本人の私」で、街中のあらゆるところで無意味に無神経に発せられるスピーカー音に対して強い抗議を示しておられるが、僕も中島先生に全く同感で、スピーカー音だけでなく、この無神経でやかましい張り紙にうんざりしている。その国の国民の成熟度や民度を判断するには、注意書きの張り紙の数を見ればいいと、どこかで読んだことがある。張り紙の多い国は、共通の認識や常識的なべースラインが確立しておらず、未熟な国民性だというのだ。多国籍で、共通の認識を形成できない国に、その傾向が強いという。単一民族、単一言語にもかかわらず日本はいつからこんなに未熟になってしまったのか。

 

そもそもは「親切」ではじまったことなのだろう。しかし、その「親切」が過剰になり、なんでも書いておかなければいけない状況になり、書いておかなければわからない何も考えない残念な人たちが増えたのだろう。想像するに、「書いてないからわからない」とクレームをつけるバカが多いのだろう。だから「書いておきさえすれば正義」も成り立つのだろう。ずっと昔に「甘えの構造」という本がベストセラーになり、日本人は日本人特有の「甘え」にどっぷり浸かっていることに気付かされたのに、状況はますます「甘え」た社会になっていると嘆きたい気持ちになる。

 

 

話はがらりと変わるが、我が都城市は、坂本龍馬夫妻が湯治に訪れたことで有名な霧島温泉郷のかたわらにあり、市内にも素晴らしい温泉が多い。病院の近隣にも温泉がいくつもある。隙間の時間で温泉を楽しむことができるので、温泉好きとしてはなんとも幸せな環境にある。

 

贔屓の温泉がいくつかあるのだが、酸性の強い硫黄系の温泉地には珍しく、アルカリ性重曹泉をたたえる温泉が特にお気に入りで、足繁く通っている。車で5分。入湯料500円。5時から23時まで営業。不規則な隙間の時間に生きている僕にもやさしい温泉だ。

 

湯量も存分にあるようで、源泉掛け流し。お湯は透き通っていて、匂いもほどよい。蒸気風呂とサウナもあり、なにより、立ったままでも胸まで浸かれる広い水風呂が気持ちがいい。アルカリ性の温泉のせいか、何度か入ると肌がツルツルになる。まるで、十代の女性のような肌になるので、自分で自分の肌をなんども撫でてみる。もっとも、十代の女性の肌がどんな感じかはすっかり忘れてしまったのだが、この肌もきっとなんかそんな感じだろう。

 

それにしても、おっさんの肌がツルツルなことほど世界中で無駄なものはない、と思う。誰が触るわけでもなく、誰が喜んでくれるわけでもなく。世間的には、おっさんの肌ツルツルは、ただ気持ち悪いだけなのだろう。しかし、おっさんとはそもそも気持ちの悪い生き物だから、そのくらいは許してほしい。おっさんだって自分の肌ツルツルは嬉しいのだ。

 

建物や設備はお世辞にも新しいとは言えないが、いつも清潔にしてあり、最近急激に潔癖症度を増している僕も嫌な気はしない。大変気に入っているのだが、唯一気にくわないことがある。そう、注意書きの張り紙だ。張り紙の数は、一般的な日本の脱衣所の張り紙数と比較しても、平均的かやや少ないくらいだ。0からマイナス1SD くらいだ。しかし、気にくわないのは、脱衣所の洗面台の鏡の大きな張り紙なのだ。

 

「ドライヤーはできるかぎりご自身のをご持参ください」

 

張り紙の目の前の立派な洗面台には、ドライヤーが3つも完備しているのもかかわらず、この張り紙は大声で注意を喚起しているのだ。そこにあるのに、できるだけ使うな、というのは変じゃないないか、と思っていた。そういうところで無駄に真面目なのか、僕はその張り紙を見てしまったせいで、ドライヤーを使えずにいた。これが、後に運命をわけることになろうとは、その時は夢にも思っていなかった。

 

ある日のこと。湯上がりの体をさましながら、なにげなくぼんやりと椅子に座って、なにを見るでもなく洗面台の方を眺めていた。僕は人を避けるように、できるだけ混まない変な時間に行くのだが、その日はいつもの変な時間にもかかわらず、割と混んでいた。近所の知り合いなのか、お風呂仲間なのか、おじさんたちが裸のまま仲良く話をしながら、同じように湯冷しをしていた。その中の一人、かっぷくのよいおじさんが洗面台に近づき、ドライヤーを手に取った。

 

僕は、急激な違和感に襲われた。

 

そのおじさんは、人工のものなのか、はたまた、自然界のおりなす技か、こちらから見る限り、髪の毛が一本もなかった。髪の毛のない頭にドライヤー。どうなるのか。僕の両目は急に覚醒し、興味津々でおじさんの動向に注目した。おじさんは、ドライヤーを強風にセットし、あろうことか、頭とは全く対照的なふさふさの脇にドライヤーを当て始めた。ガーと唸るドライヤー。風吹く草原のようにふさふさとゆれる脇毛。おじさんの恍惚の顔。

 

僕は目の前の光景を信じられなかった。が、これはことの始まりにすぎなかった。

 

おじさんは、足を肩幅に開き、がに股にかまえ、腰をややおろし、ちょうど、体の硬い力士の四股(しこ)のようなスタンスになったと思ったら、ドライヤーを持つ手をゆっくり下げた。そうです。立派な息子さんの剛毛たちを、ドライヤーで乾かし始めたのです。ガーと唸るドライヤー。風に立つライオンのたてがみのようにふさふさとゆれるおじさんの陰毛。おじさんの恍惚。

 

夢現(ゆめうつつ)の境とは、まさに今のことを言うのだろう。もはや呆然とした僕の目の前では、満足したヘアレスおじさんがその儀式を終え、おじさん2がドライヤーを握りしめようとしていた。おじさん2には髪はあった。そう、髪があった。まさか、と思う間もなく、おじさんは、やおら髪の毛を乾かし始めた。ヘアレスおじさんのライオンのたてがみを百獣の王にしたあのドライヤーで、だ。「うわ〜!」と僕は声にならない声を抑えた。

 

僕のドキドキをよそに、おじさん2は、気持ち良さそうに髪を乾かし、ドライヤーを洗面台に置いた。あ、終わるんだ、とホッとしたのもつかの間。おじさん2は、足を肩幅に開き、がに股にかまえ、ゆっくり背伸びをした。僕は見落としていた。ドライヤーのスイッチがONになっていたことを。おじさん2は、上機嫌で髪の毛をセットしながら、腰をわずかに上下させながら、洗面台に置いてスイッチを入れたままのドライヤーで熱帯雨林をサバンナに変えようとしていた。

 

熱をこもった風が部屋に充満した。

 

僕も医学の徒の末席を汚すものだ。科学者たれ、と自戒している。だから、あえての説明になるが、ドライヤーの吹き口の温度は140から120度に設定されているらしい。大概の病原菌は、そんな温風に1分間も晒されれば死滅する。インキンタムシの原因の白癬菌は特に熱に弱く、60度の熱に1秒晒されるだけでグッバイだ。おまけに、温泉は細菌やウイルスの発育には厳しい強めのアルカリ泉ときている。そんな環境下のライオンのたてがみや熱帯雨林やサバンナは、この地球上で最も清潔だ。科学的には。

 

科学的にはクリアな僕の頭には、ぞくぞくと泡立つ背中と、小刻みに震える四肢がつながっていた。

 

「ドライヤーはできるかぎりご自身のをご持参ください」

 

この注意書きだけは、間違いなく親切だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

40歳独身の苦悩

恥ずかしながら、多少すねに傷のある独身である。隠すつもりもないが、大ぴらもしていないつもりだ。しかし、この歳で独身というのは、「自虐」というカテゴリーのネタにはなる。

 

「先生は、どうして独身なの?」

 

と、直球の質問を患者さんからぶつけられることがある。

 

そりゃ不思議だろう。とびっきりのイケメンで、水もぼたぼた滴っているいい男で、世間的にはよい職業とされている医師であり、車だってこだわっている。腹は最近ダイエットして凹ましたし、ハゲつつあるのは必死に誤魔化しているのできっとばれてない。そりゃ、どうして世間の女がこんな優良株を放っておくのかのか不思議だろう。

 

それはよくわかる。なぜなら、僕も不思議だからだ。なぜ、僕には。。。。。泣。

 

いやいや、泣いている場合ではないのだ。むしろ、美味しいフリをしてくれて「ありがとう」なのだ。

 

「どうしてって。不思議ですか?」

「不思議よ。先生(医師)であれば、引く手あまたでしょう。あ〜理想が高いんだ」

「ん〜ちがうのよ。ここだけの秘密だけどね。」

「うんうん」

「たくさんの女の人が寄っては来るんだけどね。みんな逃げちゃうの。どうしてだと思う?」

「???」

「ここだけの秘密だけど、僕はすごく足が臭いの。それで、みんな逃げちゃうのよ」

「え〜!!」

 

わかっています。他愛もない話ですよ。たいして面白いわけでもない。けど、明るいご夫婦で、ひとしきりこのネタで笑って診察を終わった。こんなことでも笑って帰ってもらえば、それでいいのだ。

 

 

他愛もない話だから、そんな話をしたことすら、すぐに忘れた。忙しい毎日が2、3週間過ぎた頃だっただろうか。初めてお会いする患者さんに出し抜けに

 

「先生は足が臭いから結婚できないんだろ?」

 

と言われた。何を言っているかわからなかった。

 

「ん?え?どういうことですか?」

「え!いつも行く散髪屋で聞いたよ。散髪屋の夫婦が先生に診てもらっているって。それで、あの先生は足が臭いから結婚できないと言ってたよ〜」

 

ようやく思い出した。あの明るい夫婦だ。あの夫婦は散髪屋さんだったのだ。そして、客との会話のネタに僕を持ち出しているのだ。田舎の散髪屋は、その地域の2ちゃんねるのようなものだ。娯楽の少ない田舎のことだ。つまらない話でも娯楽の対象になる。そういうわけで、あの地域では、あの病院のあの先生はいい歳して独身だけど、足が臭いからだってよ〜という話は、きっと面白おかしく語られてしまっていることだろう。

 

しまった。。。。

 

もっと面白い理由にしておけばよかった。後悔先に立たず。

 

 

 

 

 

 

町の散髪屋の4人のおっさん

散髪は、小学校の同級生のイカした散髪屋さんにやってもらっている。今日も母校のそばにある、彼の散髪屋さんに行ってきた。彼は僕の髪を整え、僕は彼の健康を診ている。

 

隣の椅子では、彼のおやじさんが、おやじさんのお客さんの髪を切っていた。親子2代の散髪屋で、僕らが小学生の時もここで営まれていた。僕らの同級生の多くは彼のおやじさんにお世話になっていた。部活の子たちは丸刈りに、おしゃれさんはスポーツ刈りに。

 

おやじさんのお客さんが、
「あれ、先生?!。その節はお世話になりました。」
おやじさんのお客さんは、僕の患者さんだった。
「先生は、こちらの生まれですか?」と隣のお客さん。
「そうなんです。息子さんと僕は同級生なんですよ」
「あれ!そうですか!私はおやじさんと同級生ですよ!!」

 

町の散髪屋に4人のおっさん。1組の親子と、2組の同級生と、患者さんと町のお医者さん。

 

濃い地元感。

 

ところで、おやじさんのお客さんが帰った後にちょっと気になったので
「ねえねえ、俺、禿げてる?」
と、尋ねてみる。気の置けない友達だからこその直球の質問。
「絶対、大丈夫」と頼もしい答え。嘘がないから素直に嬉しい。

 

わざわざ、おやじさんのお客さんが帰った後に尋ねた理由は、決して彼がそうだったからだとは言わない。地元の話だけに、誰が読んでいるかわかりませんから。

 

 

 

 

 

 

100歳ロス

何かあるべきものがなくなった時の喪失感を「△△ロス」というらしい。誰かがいなくなった後の、胸にぽっかり穴があいたような、あるいは、祭りの後のちょっともの悲しい感じに近いのだろう。

 

「最近、さみしいんだよ」

 

と、外来に矍鑠(かくしゃく)と歩いてくるおじいさんが嘆く。100歳のおじいさん。認知もない。シャキシャキと歩いて、まっすぐ背筋を伸ばしている。

 

この冬のことだ。100歳を3ヶ月ほど過ぎた頃に肺炎に罹った。いつだって「入院だけは絶対しない」と言い張るおじいさんがさすがに苦しかったのか、その時だけは「入院させてくれ」と降参した。100歳の肺炎だ。いくら元気とは言え、100歳なのだ。家族も僕もいよいよかもしれないと緊張した。人工呼吸をするかどうか、心臓マッサージまでするかどうかの話し合いもした。万全で臨んだ。

 

そんな僕らをよそに、100歳のおじいさんは、翌日には食事を完食し、その翌日には退院すると言い始め、3日目に家族の反対を押し切り、一人で荷物をまとめ退院していった。「ちゃんと外来には来るから、な、先生。元気だろ、俺は?」と笑うじいさんを止める手段はなかった。

 

そして、すっかり元気になり、おじいさんは外来に来ている。しかし、今日は診察室に入るなり「寂しい」と言う。僕は大いに緊張した。ただならぬことだ。

 

「100歳になって、みんなが祝ってくれて、おめでとうおめでとうと言ってくれたのによ、時間が経てばだーっれも見向きもしなければ、声もかけてくれない。だからよ、先生、俺は寂しいんだよ」

 

100歳ロス。僕は何を言ってあげていいのかわからなかった。でも、言葉を継ぐ必要はなかった。おじさんはいつも通りおかまいなしに続けた。

 

「だからよ、先生、俺は決めたよ。101歳まで頑張る。101歳になったら、表彰されるだろ?だからよ、101歳まで頑張る」

 

ここ都城市は、101歳のおじいさんおばあさんに市長や助役が訪問して表彰してくれる制度がある。100歳のおじいさんは、100歳ロスから、肺炎の時のような底力で這い上がろうとしていた。

 

101歳を目指す100歳ロスのおじいさん。

 

僕は知っている。101歳を目指してこのおじいさんが頑張ることを。そして、もっと恐ろしいのは、101歳を迎え、表彰された後のことだ。次は、きっと「101歳ロス」がやってくる。100歳ロスはまだいい。1年後に101歳の表彰という希望のある到達点がある。101歳ロスは何を希望に、何を目標にそこから立ち直ればいいのだろう。

 

でも、大丈夫。僕はちゃんと用意してある。101歳ロスの特効薬は「目指せ日本一の長寿」。しかし、まだ言わない。101歳ロスになった時に、頃合いを見計らって一番いい時に処方するつもりだ。

 

いつものように、話したいことを一通り話して、「さてと」と、いつものように自分の間で立ち上がったおじいさん。診察室を出て行く途中、振り向きざまに、

 

「先生、最近、体がだるいのは、歳のせいかな〜?」

 

と、とぼけて笑う。まったく。100歳の体を張った自虐ネタはずるいよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エビフライ・ララバイ

誘われたので勉強会に出席してきた。勉強しなきゃと思っていたので、これはラッキーと意気揚々と、ノートなんか取りながら勉強会に参加していた。

 

思いがけず、その勉強会は衝撃的だった。きっと、忘れえない勉強会になった。何が衝撃的だったか。それは、エビフライだ。

 

講師は、端正な顔立ちの、そりゃもう僕エリートですもん、という感じの先生だった。きっとお家柄も、お育ちも、非の打ち所もないような、つるっとした感じ。御略歴も素晴らしく、京大卒から始まり、スライドに書ききれないほどの文句ない経歴と専門医の数。う〜ん。すごい。

 

お話も上手で、とても面白かった。面白かったのだ。そう、あの時までは。あの時、このつるっと先生が言い放った一言で、僕は意気消沈、頭真っ白、僕勉強なんかせんもんね〜、どうせ生まれも育ちも悪いし〜の無気力人間に戻ってしまった。

 

「え〜大変、下品な例えになって恐縮ですが、例えるならエビフライのような・・・」

 

ちょっと待て〜!!エビフライは下品なのか?!世間では、上流階級では、エビフライは下品なのか?!僕は今まで、エビフライは上品の最上級くらいに存在していると思っていたぞ!!子供の頃は、親が財布に無理して作ってくれたエビフライが黄金に輝いて見えたし、エビフライを食べた日の夜は「もうこのまま死んでもいい!」と思っていたぞ!!自分で稼ぐようになっても、エビフライはやっぱり贅沢で、頼む時は緊張して、「え、え、エビじゃなくてトンカツ定食」と言ってしまって、高嶺の華のエビフライに声もかけられなかったのに。昨年、院長先生がご馳走してくれた特大エビフライ一皿3本を、誰ともわけずに一人で食べられた時に、「あ〜僕は今間違いなく人生の頂点にいるな〜」と込み上がってくる涙をこらえたのに。

 

エビフライが下品?!!

 

価値観というのは様々な要因で変わってくる。日本にいると麻痺してきて、ヨーロッパもアメリカも世界中が日本人と同じような価値観を思っていると思い込んでしまう。報道を見ていても、日本人の価値観でしか考えてないニュースがほとんどだ。しかし、実際は、価値観は本当に多種多様だ。ヨーロッパと言っても、ロシアとイタリアでは全く違うし、それは地域でも、国でも、街でも、個人のレベルに至るまで、まさに十人十色だ。

 

わかっている。わかっちゃいるけど。

 

エビフライが下品と思っている人がいたなんて。。。。

そんな人とは一生、どう頑張っても、たとえ医学の話でも噛み合わないだろうと、僕は、暗い会場で絶望していた。

 

エビフライ様。あなたは、たとえ京大卒のつるっと先生には下品と言われても、僕にとっては、髪が長かった頃の夏帆さんよりも、20歳の宮沢りえさんのサンタフェよりも、プレイボーイの袋とじのグラビアアイドルよりも、こっそり隠してあるAVの綺麗な女優さんよりも、ずっとずっとずっと高嶺の華なのであります。

 

 

 

シロちゃんの入浴

シロちゃんは、彼女の赤ちゃんの名前だ。

 

寒い夜は毛布にくるみ、シロちゃんが泣けばそっと抱きしめ、眠れない時は子守唄を歌い、どこに行くにも一緒だ。デイサービスにも、ラウンジに食事に行く時も一緒に連れて行く。手押車にちょこんと前を向いてシロちゃんは座っている。彼女は手押車を押しながらゆっくりゆっくり歩いていく。

 

90歳の彼女に赤ちゃんがいるはずもなく、シロちゃんはシロアザラシの小さなぬいぐるみだ。彼女は、シロちゃんを、もしかすると本当の赤ちゃん以上に溺愛している。彼女にとっては、かけがえなのない存在なのだ。

 

往診で彼女を診察するときは、彼女の胸の音を聞いた後に、シロちゃんの小さな胸にも聴診器をあてる。「大丈夫?」と心配そうに覗き込む彼女は「大丈夫よ。シロちゃんは元気よ」に満面の笑みを浮かべる。ままごとのような診察だけど、僕もスタッフも真剣にやっている。大げさになるが、僕たちは、彼女の世界観を大事にしようと決めているからだ。

 

認知症のためにぬいぐるみを赤ちゃんだと思い込んでいる、と言ってしまえば、それでおしまいの話で、似たようなことはどこにでもよくあるかもしれない。認知症の症状で幻覚や幻想を持つことがあるが、治療者はそれを肯定してはいけないと言われることがある。だから、診察の時にも、彼女に「シロちゃんは大丈夫?」と訊かれれば、「シロちゃんはぬいぐるみだから病気にはならないのよ」というのが正解かもしれない。僕たちがそう言わない理由は、いろいろ御託を並べれば感動的なことも言えそうな気がするが、立派な理由があるわけではない。僕たちがそう言わない理由は、「シロちゃんはぬいぐるみだから病気にはならないのよ」と言うことが、なんだかしっくりこないからだ。やっぱり、シロちゃんは彼女の赤ちゃんに見えてしまうからだ。それほど、彼女が真剣に可愛がっているからかもしれない。彼女が、そう思うならそうしてあげよう、と口裏を合わせたわけではないが、なんとなくそれが共通認識になっている。

 

ロマンチストっぽいことを恥ずかしげもなく言うが、きっと、魔法使いがやってきて、本当に彼女の赤ちゃんをシロちゃんに変えてしまったのだと思う。そして、その魔法使いは、もう一つ魔法をかけたのだろう。それは、シロちゃんを見る人がみんな、シロちゃんは彼女の本当の赤ちゃんだと信じてしまう魔法だっだ、と。

 

ちょっと頭がおかしいと思われるかもしれないが、それでいいじゃないかと僕は思っている。なぜならば、シロちゃんは単にぬいぐるみであることより、彼女の赤ちゃんであったほうが、彼女が幸せだからだ。認知症をどうにか食い止めることも僕たちの役割かもしれない。しかし、「老い」という自然の流れはどうやっても止められない。僕たちの仕事は、自然の流れに抗うことではなく、その中に幸せを見つけることかもしれないと、彼女とシロちゃんを見ていて思うことがある。

 

シロちゃんをそんな風に思ってしまうのは、中学の時に好きだった先輩に、全く同じシロアザラシのぬいぐるみをもらったことがあるからかもしれない。そんな甘酸っぱい過去は、スタッフには秘密にしてあるが。。。きっとその偶然も、魔法使いの仕業に違いない。

 

シロちゃんは、赤ちゃんだから、もちろん食事もする。彼女は、自分の食事からシロちゃんが食べられそうなものを食べさせている。ヨーグルトだったり、柔らかいデザートだったり。ところがシロちゃんときたら、おちょぼ口なのか、小食なのか、他の赤ちゃんと同じように食べこぼしが多い。口の周りや首回り、胴体まで、カピカピに汚れてしまっている。口の周りは特にひどい。このままでは育ちの悪い子に思われてしまう。

 

これまでにもスタッフは何度かシロちゃんを預かって洗おうとした。しかし、彼女は自分の手から離れることも、誰かが自分の見えないところへシロちゃんを連れて行くことも嫌がるので、シロちゃんを洗うことができなかった。

 

冬はまだいい。問題は、梅雨だ。梅雨には、シロちゃんの食べかすにはカビが生える。これは衛生上、さすがに許容できない。梅雨までになんとか解決法を見つけなければと頭を抱えていた。

 

そんな時にスタッフの一人が、

「デイサービスで入浴する時に、一緒にお風呂に入って洗ってもらいましょうよ」

とニコニコしながら提案した。彼女はデイサービスでお風呂に入っている。その時に一緒にお風呂に入れて、洗ってもらいましょうよ、ということだった。

 

お〜!!ナイスアイデア!!と思ったが、その瞬間、ちょっとだけ魔法が解けて、大人の僕が顔を出してしまった。

 

いや、いくらシロちゃんが彼女の赤ちゃんとなっているとは言え、デイサービスの人に、シロちゃんは赤ちゃんなので、彼女と一緒に、赤ちゃんの「てい」でお風呂に入れて洗ってください、と言ったら、デイサービスの人は怒るんじゃないか?それは、自分たちの仕事じゃないって言われたら、言い返す言葉もないし。さすがにこいつ頭おかしんじゃないか?とクレームが出るに違いない。

 

ちょっと怖かった。怖かったので、そう提案したスタッフに、押し付けてみた。「シロちゃんを彼女と一緒にお風呂に入れてあげてと、デイに言っておいてよ」と僕。大人とは汚いものだ。スタッフは、邪気のなさそうな目を装い「は〜い。先生の指示だと伝えておきます」と言った。大人のずるさは全く通用しなかった。スタッフは僕より何枚も上手の「女のずるさ」でしっかり武装している。「また、先生がわけわからんこと言ってる!!」と怒られるだろうなと覚悟していた。

 

 

 

 

デイサービスが終わった彼女の診察に行った。シロちゃんは、柔らかいタオルに包まれて、横たわる彼女のお腹の上にいた。「お風呂に入ったから、湯冷めするといけないからね」と彼女は教えてくれた。デイサービスのスタッフは、彼女と一緒にシロちゃんをお風呂に入れてくれて、綺麗に洗ってくれていた。

 

「デイサービスで、シロちゃんは優しく洗ってもらえたの?」

「うん。優しく洗ってくれたよ」

「一緒にお風呂に入ったの?」

「そうだよ。嬉しかった〜」

 

デイサービスがどれだけ忙しいか。一日に多くの高齢者をお風呂に入れ、食事を食べてもらい、リクリエーションまでする。まさに忙殺されるはずだ。「忙しい」は、心を亡くすと書く。忙しい中で、誰かに優しくしたり、誰かのことを思いやったりするのは、とても難しい。いつも忙殺されてしまう僕はよく知っている。自分は心を亡くしていると反省する毎日だから。

その忙しい彼らが、彼女の世界観を大事にしながら、シロちゃんを丁寧に洗ってくれたということは、想像するよりはるかにすごいことなのだ。「そんなの誰だってできるよ」と思う人は、まだまだ人間というものも、そして自分さえもよくわかっていないかもしれない。残念ながら、人とはそういうものなのだけど、デイサービスのスタッフは違った。忙しくても、決して心は亡くしてはいなかった。

 

頬を赤らめて横になる彼女と、真っ白に戻ったシロちゃんを見て、僕もスタッフも嬉しかった。満足そうに笑う彼女は、とても幸せそうだった。

 

それにしても、きっと、シロちゃんも彼女も、施設のスタッフも、デイサービスのスタッフも、みんなが魔法にかかっていることに違いはないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナースキャップ復興期待論

なんとも時代遅れの話を蒸し返すのだが、おじさんはどうしても言いたいのだ。

 

いまから遡(さかのぼ)ること10年くらいだろうか、日本の病院からナースキャップが忽然と消えた。「忽然」とは言い過ぎだろと今の若者は思うかもしれないが、「忽然」でも「突如」でもいいと思うくらいの勢いでナースキャップは消え去った。ナースの歴史以来、看護師の頭上で輝いていたキャップが、あっという間に消え去ったのだ。

 

ナースキャップが廃止に追い込まれた理由は、表向きは、ナースキャップにはばい菌がたくさんついていて、感染の原因になるから、ということだったようだ。実際は、ナースキャップをあちこちぶつけたり、点滴に引っ掛けたり、とにかく危険だし、邪魔だし、鬱陶しいという看護師さんたちの不満が募ったあげくの結果だったようだ。

改めて調べてみると、ナースキャップはコーンスターチなどの成分が含まれた洗濯のりでパリっと仕上げられており、そのでんぷん等の成分が細菌の培地になるだとか、そもそも洗わないものだから不潔だとか、培養するといろいろな細菌が検出されるだとか、そういうまことしやかなお話がたくさん出てくる。看護研究も多少はされているようだが、科学的検証に耐えうる論文やデータは見つけられなかった。看護研究は、残念ながらいまでもそうだが、ツッコミを入れたくなる内容がとても多い。

 

クリーニングでのり付けされるのは、ナースキャップに限らず、ユニフォームも医師の白衣だってそうだし、手術室の作業着だって同じだ。それらは調べたの?そもそも、滅菌されていない限り、どんなものだって培養すれば細菌はでるんじゃないの?百歩譲ってナースキャップだけばい菌が多かったとしよう。さて、そのばい菌たちはどこからやって来たのかい?普通に考えれば髪の毛だよ。その髪の毛の培養はしたのかな?髪の毛からばい菌が検出されたら、看護師はみんな坊主になるんか〜い!!


そして、ナースキャップからの落下細菌が感染の原因になるというなら、ナースキャップありの場合とナースキャップ無しの場合で、何らかの感染率が下がったというデータが必要なんじゃない?ナースキャップが廃止になって10年くらい経つけど、感染症が劇的に減ったという話はきかない。

 

そして、最も問題なのは、ナースキャップの不要論が、とにかく看護師の間だけで議論されたことだろう。ナースキャップの必要性について、看護師もしくは医療従事者を対象にしたアンケートの結果は残っている。しかし、患者さんを対象にしたアンケートは見つけられない。あるのかもしれないが、なかなか見つけられない。そう。大事なことを忘れている。患者さんの意見は聞かれようともせずに廃止になっているのだ。

 

これこそが大問題だ。看護師が忌み嫌う、患者不在の医療の結果がここにある。

 

ナースと聞いて、あなたはどんな姿を想像するだろうか。白衣のワンピースを身にまとった愛くるしい笑顔の上には白いナースキャップが輝いているのではないだろうか。実際にGoogleで「ナース、コスプレ」で画像を検索すると、ずらりとナースキャップをかぶった姿の写真が並ぶ。世の中の人はまさにこれを想像しているのだ。あー、わかっている。わかっている。おかしなことを言っているさ。だんだん本気になってきた自分にも驚くが、改めて言おう。

世の中の普通の人たちが想像するナースは、ナースキャップをかぶった白衣の天使なのだ。

そもそも、ナースキャップは教会のシスターのほっかむりに原点がある説が有力なようだ。教会のシスターは神と結婚した天使のような存在だ。はじめからナースキャップには天使要素が内包されている。ナースキャップを冠った優しい笑顔は、天使の笑顔なのだ。患者さんが求めているのは、まさにその天使の笑顔ではないだろうか。ナースキャップの有無で患者さんの満足度調査をしたら、「ナースキャップあり」の方が圧倒的に満足度は高くなるだろう。満足度が高ければ、死亡率も、在院日数も、投薬量も、離床率も改善するのではないだろうか。そうすれば、医療費も削減でき、医療費が削減出来れば消費税を10%にあげる必要がなくなり、膨大な医療費にあえぐ日本経済を救うことができるかもしれない。そうなのだ。

 

ナースキャップの復興は日本経済を救うのだ。

 

「何言ってんの?!バカじゃないの?!」と思っているのナースのあなただって、看護師になろうと思ったときのイメージにナースキャップはあったでしょう?戴帽式で、ナースキャップをはじめて冠って感動したんじゃない?そうなのだ。なにがそうなのかわからないが、ナースキャップがあったほうが、絶対にかわいいのだ。「夢を叶えて看護師になったけど、夢と全然ちげ〜よ、白衣の天使ってなんだよ。ケッ!!」と酒を煽りながら世を儚んでいるあなたの化粧乗りの悪い二日酔いの顔だって、ナースキャップで天使の笑顔に様変わりするのだ。ジェダイがフォースを信じるように、聖闘士星矢が小宇宙(コスモ)を感じたように、いまこそナースキャップの力を信じよう。


僕のいるクリニックでは、雑滅危惧種のナースキャップがある部署に限って生き残っている。僕は、ナースキャップ科のナースのボスに、お願いだから廃止しないでくれ、と土下座をせんばかりの勢いでお願いをしている。心強いことに、当院では、師長さん自らナースキャップをかぶり、今日も天使の笑顔だ。

 

看護師さん、絶賛募集中。ナースキャップを冠って仕事出来ます。