在宅医の泣き笑い診療録

宮崎県都城市の高齢者住居を抱えるクリニックで、理想の在宅医療を模索する新米在宅医の悲喜こもごも

「親切」な張り紙

やたらめったら張り紙をしてあるのが嫌いだ。親切なのか、注意なのか、そこら中にベタベタと張っているのが目について嫌になる。うっかりコンビニのトイレなんか行くと、元の壁が見えないくらい張ってあって、用を足す時間よりも、それらを全部読む時間の方がかかってしまう。最後まで読み終わった頃には、最初の張り紙に何を書いてあったのか覚えていないので、なにを注意しているのかわからない上に、不快感だけがのこる。用を足して「すっきり」とはいかない。

 

また書いていることもカンにさわる。「トイレを汚されると迷惑だから綺麗に使え」と書けばいいのに、「いつも綺麗に使ってくれてありがとうございます」と善意を装うから、余計にいやみっぽさが鼻につく。いっそのこと「トイレは綺麗に使いましょう」とか「終わったら手を洗いましょう」と印刷したトイレットペーパーでも売り出せばいいのに。

 

まったく、いつの間に日本は張り紙だらけになってしまったのだろう。哲学者で作家の中島義道先生が、著書の「うるさい日本人の私」で、街中のあらゆるところで無意味に無神経に発せられるスピーカー音に対して強い抗議を示しておられるが、僕も中島先生に全く同感で、スピーカー音だけでなく、この無神経でやかましい張り紙にうんざりしている。その国の国民の成熟度や民度を判断するには、注意書きの張り紙の数を見ればいいと、どこかで読んだことがある。張り紙の多い国は、共通の認識や常識的なべースラインが確立しておらず、未熟な国民性だというのだ。多国籍で、共通の認識を形成できない国に、その傾向が強いという。単一民族、単一言語にもかかわらず日本はいつからこんなに未熟になってしまったのか。

 

そもそもは「親切」ではじまったことなのだろう。しかし、その「親切」が過剰になり、なんでも書いておかなければいけない状況になり、書いておかなければわからない何も考えない残念な人たちが増えたのだろう。想像するに、「書いてないからわからない」とクレームをつけるバカが多いのだろう。だから「書いておきさえすれば正義」も成り立つのだろう。ずっと昔に「甘えの構造」という本がベストセラーになり、日本人は日本人特有の「甘え」にどっぷり浸かっていることに気付かされたのに、状況はますます「甘え」た社会になっていると嘆きたい気持ちになる。

 

 

話はがらりと変わるが、我が都城市は、坂本龍馬夫妻が湯治に訪れたことで有名な霧島温泉郷のかたわらにあり、市内にも素晴らしい温泉が多い。病院の近隣にも温泉がいくつもある。隙間の時間で温泉を楽しむことができるので、温泉好きとしてはなんとも幸せな環境にある。

 

贔屓の温泉がいくつかあるのだが、酸性の強い硫黄系の温泉地には珍しく、アルカリ性重曹泉をたたえる温泉が特にお気に入りで、足繁く通っている。車で5分。入湯料500円。5時から23時まで営業。不規則な隙間の時間に生きている僕にもやさしい温泉だ。

 

湯量も存分にあるようで、源泉掛け流し。お湯は透き通っていて、匂いもほどよい。蒸気風呂とサウナもあり、なにより、立ったままでも胸まで浸かれる広い水風呂が気持ちがいい。アルカリ性の温泉のせいか、何度か入ると肌がツルツルになる。まるで、十代の女性のような肌になるので、自分で自分の肌をなんども撫でてみる。もっとも、十代の女性の肌がどんな感じかはすっかり忘れてしまったのだが、この肌もきっとなんかそんな感じだろう。

 

それにしても、おっさんの肌がツルツルなことほど世界中で無駄なものはない、と思う。誰が触るわけでもなく、誰が喜んでくれるわけでもなく。世間的には、おっさんの肌ツルツルは、ただ気持ち悪いだけなのだろう。しかし、おっさんとはそもそも気持ちの悪い生き物だから、そのくらいは許してほしい。おっさんだって自分の肌ツルツルは嬉しいのだ。

 

建物や設備はお世辞にも新しいとは言えないが、いつも清潔にしてあり、最近急激に潔癖症度を増している僕も嫌な気はしない。大変気に入っているのだが、唯一気にくわないことがある。そう、注意書きの張り紙だ。張り紙の数は、一般的な日本の脱衣所の張り紙数と比較しても、平均的かやや少ないくらいだ。0からマイナス1SD くらいだ。しかし、気にくわないのは、脱衣所の洗面台の鏡の大きな張り紙なのだ。

 

「ドライヤーはできるかぎりご自身のをご持参ください」

 

張り紙の目の前の立派な洗面台には、ドライヤーが3つも完備しているのもかかわらず、この張り紙は大声で注意を喚起しているのだ。そこにあるのに、できるだけ使うな、というのは変じゃないないか、と思っていた。そういうところで無駄に真面目なのか、僕はその張り紙を見てしまったせいで、ドライヤーを使えずにいた。これが、後に運命をわけることになろうとは、その時は夢にも思っていなかった。

 

ある日のこと。湯上がりの体をさましながら、なにげなくぼんやりと椅子に座って、なにを見るでもなく洗面台の方を眺めていた。僕は人を避けるように、できるだけ混まない変な時間に行くのだが、その日はいつもの変な時間にもかかわらず、割と混んでいた。近所の知り合いなのか、お風呂仲間なのか、おじさんたちが裸のまま仲良く話をしながら、同じように湯冷しをしていた。その中の一人、かっぷくのよいおじさんが洗面台に近づき、ドライヤーを手に取った。

 

僕は、急激な違和感に襲われた。

 

そのおじさんは、人工のものなのか、はたまた、自然界のおりなす技か、こちらから見る限り、髪の毛が一本もなかった。髪の毛のない頭にドライヤー。どうなるのか。僕の両目は急に覚醒し、興味津々でおじさんの動向に注目した。おじさんは、ドライヤーを強風にセットし、あろうことか、頭とは全く対照的なふさふさの脇にドライヤーを当て始めた。ガーと唸るドライヤー。風吹く草原のようにふさふさとゆれる脇毛。おじさんの恍惚の顔。

 

僕は目の前の光景を信じられなかった。が、これはことの始まりにすぎなかった。

 

おじさんは、足を肩幅に開き、がに股にかまえ、腰をややおろし、ちょうど、体の硬い力士の四股(しこ)のようなスタンスになったと思ったら、ドライヤーを持つ手をゆっくり下げた。そうです。立派な息子さんの剛毛たちを、ドライヤーで乾かし始めたのです。ガーと唸るドライヤー。風に立つライオンのたてがみのようにふさふさとゆれるおじさんの陰毛。おじさんの恍惚。

 

夢現(ゆめうつつ)の境とは、まさに今のことを言うのだろう。もはや呆然とした僕の目の前では、満足したヘアレスおじさんがその儀式を終え、おじさん2がドライヤーを握りしめようとしていた。おじさん2には髪はあった。そう、髪があった。まさか、と思う間もなく、おじさんは、やおら髪の毛を乾かし始めた。ヘアレスおじさんのライオンのたてがみを百獣の王にしたあのドライヤーで、だ。「うわ〜!」と僕は声にならない声を抑えた。

 

僕のドキドキをよそに、おじさん2は、気持ち良さそうに髪を乾かし、ドライヤーを洗面台に置いた。あ、終わるんだ、とホッとしたのもつかの間。おじさん2は、足を肩幅に開き、がに股にかまえ、ゆっくり背伸びをした。僕は見落としていた。ドライヤーのスイッチがONになっていたことを。おじさん2は、上機嫌で髪の毛をセットしながら、腰をわずかに上下させながら、洗面台に置いてスイッチを入れたままのドライヤーで熱帯雨林をサバンナに変えようとしていた。

 

熱をこもった風が部屋に充満した。

 

僕も医学の徒の末席を汚すものだ。科学者たれ、と自戒している。だから、あえての説明になるが、ドライヤーの吹き口の温度は140から120度に設定されているらしい。大概の病原菌は、そんな温風に1分間も晒されれば死滅する。インキンタムシの原因の白癬菌は特に熱に弱く、60度の熱に1秒晒されるだけでグッバイだ。おまけに、温泉は細菌やウイルスの発育には厳しい強めのアルカリ泉ときている。そんな環境下のライオンのたてがみや熱帯雨林やサバンナは、この地球上で最も清潔だ。科学的には。

 

科学的にはクリアな僕の頭には、ぞくぞくと泡立つ背中と、小刻みに震える四肢がつながっていた。

 

「ドライヤーはできるかぎりご自身のをご持参ください」

 

この注意書きだけは、間違いなく親切だ。